



「今月のカレンダー 」を 11月/12月 に入れ替えました。
11月 アカザ(藜) 〔アカザ科〕
11月 ツワブキ(石蕗) 〔キク科〕
【ツワブキ】 (石蕗)
「ハッパにツヤがあるフキ(蕗)」 つまり 「艶葉蕗(つやばぶき)」 が名前の由来とされる。
秋(10~12月ごろ)に 黄色い キクのような花をつける。
丈夫で 乾燥に耐え, 日陰でもよく育つ。 日本庭園でよくみられる。
フキと同じように, 茎を食用とすることもある。
「キャラブキは もともとはツワブキで作っていた」 という人がいるが, 審議のほどは不明。
個人的には この花の印象は あまりよくない。
昔住んでいた家では 便所の近くに植えられていて, なんとなく不潔っぽい印象があるため。
見るからに “熱帯植物” という印象の 派手な花。 南アフリカ原産。
鮮やかな オレンジ色や青色の花をつけるため 『極楽鳥花』とも呼ばれる。
多くの図鑑などには 「バショウ科」 に属すると書かれているが, 最近は「ストレリチア科」と分類されることも多いらしい。
熱帯植物とはいえ, この花を育てるのはあまり難しくないという。
鉢植えなら 寒い時期には室内に入れ, 温かい土地であれば 露地植えも可能。
花のない時期でも姿が美しいので, 観葉植物としても楽しめる。
「発祥の地コレクション」に 東京都と横浜市に見つけた発祥の地 4件を掲載。
日本体育会発祥之地 (新宿区)
日本最初の電気街灯建設の地 (中央区)
氷川神社発祥之地 (練馬区)
三ツ輪産業発祥の地 (横浜市)
【日本体育会発祥之地】
“日本体育会” と類似した名称の組織に “日本体育協会” がある。 日本体育協会は, 国内の多くのスポーツ団体を統括する財団法人。
一時期 “大日本体育会” という名称だったため まぎらわしいが, “日本体育会” は 傘下に 日本体育大学 などを有する「学校法人」 である。
現在 発祥碑の建っている 成城中学・高等学校は, 創立者が日本体育会 の創立者と同じであるため ここに碑が建てられているらしいが, 現在は 相互の関係は ほとんどないという。
【日本最初の電気街灯建設の地】
銀座2丁目の交差点。 背の高い街灯が一本建っている。 銀座通りにズラ~っと並ぶ 一般の街灯よりも ずっと背が高い。
注意して周囲を探しても 碑など見つからない。
“しょうがないな~ この街灯がそれらしいのだが...” と 街灯の柱を見ると, ちょうど眼の高さに 金属板が張り付けられているのに気がついた。
ここは ちょうど カルティエの店の前, その向こう側には シャネル。 道路をはさんで斜め向い側に ティファニー, そして 向い側には ブルガリ の新しいビルが建築中, という海外ブランドの店が集中している。
明治の初めのころから ここは 東京の中心的商業地だったのだろう。
【氷川神社発祥之地】
日本の「氷川神社」が初めて起こった場所かと思って 期待して現地に行ったが, 残念ながら そうではなかった。
ここは 旧練馬村の鎮守であった 氷川神社 (現在地 練馬区氷川台4丁目) が創建された場所だという。
今は「おはま井戸」という石碑がたっている 公園のような場所で, 周囲はごく普通の住宅地。
いつ 現在地に移転したのかはわからないが, 一定の規模の神社を建てるには 狭すぎるため 新しい場所を求めて 移動したのだろうか。
【三ツ輪産業発祥の地】
企業の発祥碑は あまり見ることが少ない。
たいてい 工場などの敷地内にあって, 一般に公開されていないし, 存在そのものが知られていないから。
でも, せっかく碑をみつけても, 碑を建てた背景や 由来などをキチンと書いておいてもらわないと, ただ 「へ~~」 と思うだけで, それ以上の印象は残らない。
前回に引き続き 埼玉県で見つけた発祥の地。
埼玉県電灯発祥の地 (川越市)
藤間流発祥の地 (川越市市)
南永井さつまいも始作地之碑 (所沢市)
片山小学校発祥地 (新座市)
【埼玉県電灯発祥の地】
川越市の住宅地の中に 東京電力の川越支社がある。ここに「埼玉県電灯発祥の地」の碑が建っていて, ここは もと火力発電所だったこと,その電力を用いて 川越~大宮間に電車が運行されたことが書かれている。
この東京電力の建物のある場所は,明治36年に 川越電燈(株)によって 石炭火力発電所が設置された所。
また この建物に隣接する 中央公民館は,明治39年以降 電車の駅(川越久保駅)だった。 川越電気鉄道(株)によって ここから大宮までの電車 (路面電車) が開通し, 約13km を45分かけて運行していた。
ちなみに “川越電燈”は 鉄道会社と合併して “川越電気鉄道(株)”となっていた。
大正11年, 電力事業は 帝国電燈 (後に 東京電力になる) に吸収合併され, 鉄道部門は (旧)西武鉄道と改称して, 西武・大宮線 と改称した。
鉄道事業の経営は順調だったようだが,昭和15年に 当時の国鉄 (正確には この時は鉄道省の経営) が, 東北本線と中央本線を 東京都内を通らずに直結するために, 大宮~川越間に 川越線 を開業したた。 このため 西武大宮線は乗客が激減し, 翌年には廃業に追い込まれている。
JR川越線とは別に 川越~大宮館に電車が運行されていた という事実は 全く知らなかったので, 大変興味深かった。 路線のほとんどが 道路上を走る“路面電車”だったため, 線路跡が遊歩道になったりしなかったためか, その線路跡は ほとんど残っておらず, わずかに ごく一部に 鉄橋の橋脚跡などの遺構が見られるだけだというのは 残念なことである。
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